オリンピックおじさんの孫オリンピックボントコ・山田藏之輔君
写真:山田直稔さんのパネルの前に立つ藏之輔君。シルクハットや扇子、ウェアは直稔さんが使っていたもの=2020年3月、東京都江東区
拡大山田直稔さんのパネルの前に立つ藏之輔君。シルクハットや扇子、ウェアは直稔さんが使っていたもの=2020年3月、東京都江東区
■応援団長役「僕が継ぐ」
昨年3月15日、葬儀が営まれていた東京都内のお寺に少年の声が響いた。
「僕が日本の応援団長の跡を継ぎます!」
声の主は、山田藏之輔(くらのすけ)君(13)=東京都江東区。目の前には富山県の旧井波町(現南砺市)出身で、「オリンピックおじさん」として世界中の人たちに親しまれた祖父・山田直稔(なおとし)さんの遺影があった。集まっていた親族からどよめきと拍手が起こった。
直稔さんは、1964年の東京から2016年のリオデジャネイロまで夏季五輪の開催地を訪れ、選手に声援を送り続けた。
トレードマークは、派手なコスチューム。「JAPAN」の文字が入った金色のシルクハットに鮮やかな色の羽織はかま。日の丸が描かれた金色の扇子を右に左に大きく振り、ひのき舞台に立つ選手を鼓舞した。
「堂々とした姿がかっこよかった」。リオ大会でテレビカメラがとらえた祖父の雄姿が、藏之輔君の脳裏に焼き付いている。東京大会は一緒に応援するものだと思っていた。しかし、昨年3月9日、直稔さんは亡くなる。
直稔さんは、藏之輔君を「クラ」と呼んでかわいがってくれた。赤穂浪士の討ち入りの日に生まれた孫に、大石内蔵助からとって「藏之輔」と名付けてくれたのも直稔さんだ。
顔を合わせる度に「人を喜ばせる数が多いほど幸せになれる」「いつも笑顔で周りの人たちに感謝しなさい」と直稔さんは話してくれた。そして、いつも笑顔だった。
明るく、人を元気にする直稔さんは、藏之輔君にとって憧れの存在だった。
直稔さんがいつも語っていた言葉が、もう一つある。「世界を平和にすることがオリンピックの意義だ」
直稔さんの次男將貴(まさたか)さん(61)は、父の戦争体験を聞いたことがある。「特攻隊員として出撃するはずだったようですが、視力が悪くて実際に動員されることはなかった。自分は助かったが、多くの仲間を失ったと話していました」。平和を強く願っていた。
藏之輔君は言う。「オリンピックでみんなが笑顔になれればいい。そうしたら世界はきっと平和になる。僕がおじいちゃんの願いをかなえたい」
新型コロナウイルスの感染拡大で、東京五輪の1年延期が決まった。「楽しみにしていたので本当に悔しい。でも、中止じゃなくてホッとした」と藏之輔君。観戦チケットの取り扱いも正式には決まっていないが、延期されても有効なら、藏之輔君はバレーボール女子の3位決定戦の会場で、祖父譲りの応援を披露する。
直稔さんが天国から見つめてくれていると思う。「声が小さかったら『クラ、もっと声出さんか』って怒られる。だから、気持ちを切り替えてあと1年しっかり準備し、本番では延期になった悔しさをぶつけたい。元気いっぱいで会場を盛り上げます」(野田佑介)
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